大阪での初の競艇開催は狭山の池であるが移転を余儀なくされ
その候補地として
住吉区の西端平林町の府の貯木場
住之江の芦のおい茂ったゴミ捨場の沼地
ナンバの球場に水を入れて・・・
などがあがった
その中から本命として残ったのが
ここ
「 芦のはえた住之江の池 」
「ナンバ」から地下鉄でわずか15分、すぐ近くを市電も通り地理的には最良
1954(昭29)年暮れから土地の所有者浜田氏との交渉に入り
37,500余坪の用地をなんとか確保することができた
これが当時のじんあい処理場、現在の住之江競艇場である
1956(昭31)年1月6日:主催:大阪府都市競艇組合、施行:大阪競艇施設株式会社の生死をかけた起工式が行われた
同年6月18日:総工費1億数千万円、半年間のスピード工事で新「住之江」の競艇場が完成した
1956(昭31)年6月19日:大阪府都市競艇組合主催にて初の大阪競走場が開催される
この日の記念レースは、つぶよりのA級選手をあつめて開催
19日から24日まで6日間の入場者 17,529人、売上げ 31,241,900円
はじめて3,000万円を突破した
狭山の成績にぐっと水をあけたが、諸経費を差引くとやはり赤字状態は続いた
が
関係者の努力も実り大阪競艇に徐々に明るい兆しが見えてきた
1959(昭34)年度
95日間の入場者総数 241,426名、売上金 76,327,500円
住之江開催3年目、狭山開催から7年半を経て、ようやく獲得した成績である
主催16市に配分した純益はわずか
最低の寝屋川市の場合 1,342,207円だったが、この時の感激は大きかった
そして
1961(昭36)年6月21日から25日の5日間の
節間売上 107,997,300円と、ついに1億円の壁を破って全国の新記録となった
<昭和43年度・箕面市主催・大阪競艇場・連勝単式勝舟投票券>
このころ大阪競艇場とも呼ばれていたが徐々に住之江競艇場の名前が定着してきた
大阪府大阪市住之江区泉1−1−71
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